第10回 わらじーズの実践へ 〜ことばの仕事 その2〜 高橋真美

学習において、“ 分からない ”ことがなくなることは、
衰退の一歩をたどることに等しいのではないだろうか。
そしてだんだんと、このような風体になってくる気がするのだ…。

 

こんにちは。

 

前回、日本語母語話者にも関わらず、
日本語は難しく感じると書いた。
つまり日本語のネイティブだからといって
日本語を教えられるかというと、
そうではないということだ。

 

教えるには、その言葉の構造を
まず知っている必要があるし、
文字や読み方などもそうだ。
また、どのような状況で使われるのか、
文脈の中での最適な活用においても、
詳しくある。

 

しかし、何よりも重要なのは、
学ぶ人が持つ疑問に対して
何らかの助け舟を出せるかどうかだ。
そしてその役立つ存在になるためには、
相手の「なぜ、どうして分からないのか」を
無視しないことが何よりも意味をもつと
私は思っている。
なぜなら、その “ 分からない ” と
学ぶ人が表明できること自体が、
次のステージへの扉の鍵を
握っているからだ。

 

ただその “ 分からない ” にも、
色々とタイプがある。
単語の意味が分からなくて
文章全体が分からなくなっている場合、
あるいは単語の意味は分かるが、
文が長くて結局全体像が掴めない場合、
それかなぜこの状況でこの単語を使うのか、
背景が分からない場合もある。

 

この “ 分からない ” を、
瞬時にどこからのものか判断し、
頭ではなく気持ちとも
照らし合わせることができて初めて、
教えられるステージに立つ、
そんなことを思うのだ。

 

次回につづく。

 


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