死刑は「刑」なのか ー 増田拓史

 

先日、死刑が執行されました。

 

極めて凶悪な事件を起こし
社会を大きく混乱させたのだから
当然なのだろうか。

 

しかし、死刑は「刑」として
妥当なのだろうか。
本来の刑とは犯した罪を悔い改めながら
更生させるためにあるはずではないか。

 

死刑を執行するということは
それ以上刑に服する必要が
なくなるということで
死をもってそれ以上を
清算してしまっているのだ。
戦後から現在に至るまでに、日本の刑法は
文化的で人間的に成熟してきたはずなのに
死刑に関しては、江戸以前から続く

「目には目を、歯には歯を」

のような短絡的な手続きしか
存在していない。

 

犯した罪の内容や、
遺族の感情を考慮
してみれば、
それが妥当ということなのか。

 

選択的に重罪を犯した者には
自然死が訪れるまで刑に服し
犯したことを悔やみ、更生の機会を得る。
そして、刑務所の社会の中で模範と
なるような人物になるように努め続ける。
これが刑としての死刑ではないだろうか。

 

また更生させる能力が向上すれば、
一様に無期的な死刑に処する必要も
なくなるのではないだろうか。

 

例えば永山則夫はどうだろうか。

 


永山は獄中で学びと出会い

「知ること」と「考えること」

ができるようになった。
そして強く犯したことを
悔いるようになれた。

 

その様子は著書「無知の涙」から伺える。
またその後、「木橋」にて
文学賞を受賞した。
着実に更生段階の途中にあったはずだ。
もしも永山が永続的に作家を続けられたら
それは確実に社会の利点になったはずだ。
永山の作品と死刑執行の事実は
幼少期の私に深く影響を与えた。

 

社会が成熟すればするほど、
単純な死刑制度は
合理性を失い続けるはずだ。

 

これも日々の制作のなかで
考えていることのひとつなのです。

 

 


2018年07月31日 | Posted in 余談Lab, ひらめきのタネ, 美術家 増田 拓史 | | No Comments » 

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