続きを想像すること ー nashinoki

 

こんにちは。
次は鳥取のことをと思っていたのですが、
もう一つ書きたいことを思い出して、
水俣で経験したことを
書いてみたいと思います。

 

水俣に滞在していた時、
何人かの友人と、
自分がこれまで影響を受けた本について話す
小さな場をもちました。

 

そこでは読書だけでなく、
自らが表現することに関する
話題もあがったのですが、
その時同席した二人が言ったことに、
僕は頭を打たれました。

 

二人のうち、一方は写真を撮る人で、
もう一人は言葉を書く人でした。

 

二人が写真を撮ったり
文章を書いたりするのは、
目の前で起こったことを
後で繰り返して確認するため、
あの時あの人はああだったのかな、
こういう気持ちだったのかなと
思いをめぐらし、
そこにいた人たちが
目の前にいなくなっても、
起こった出来事の続きを自分で想像し、
続けること。
それが自分にとって
書いたり撮ったりする営みなのだと、
二人は言いました。

 

それを聞いて、
僕はとても恥ずかしくなりました。

 

自分も日記を毎日つけているし、
深く印象に残った出来事を、
もう少しまとまった文章に
することもあります。

 

自分の中に深く残っていることを、
できる限り正確に
言葉の形にかたどっていくことで、
内側にある茫漠とした気持ちを整理し、
自らのたどった時間を確認する。
文章を書くことは、
僕にとってそういう面に
重きをおいた行為でした。

 

しかし例えば文中に登場するある人が、
その時どういう気持ちで
そこにいたのかということには、
想像が足りなかったのではないか。

 

だとしたら自分の書いていたものは、
書かれたその人にとって、
意味あるものだったのだろうか。
そう思いました。

 

最近短いエッセイを書く機会があり、
それを書いている時、
そこに登場する一人の近しい友人の、
ある場面での気持ちを、
できるだけ想像しようとしました。

 

すると書いていて、
目から涙が流れました。
なんだか僕とその人、
そして書いている今と、
書かれている過去の時間が
一度につながったようになり、
そのことに自分でも驚きました。

 

水俣でこの対話の場をもった時、
僕は自分が恥ずかしくなり、
また同時に、
二人から新たな世界を
見せてもらったようにも思ったのです。

 


MAGAZINE 「TOTTO


2020年01月06日 | Posted in 余談Lab, ひらめきのタネ, 文を書く人 nashinoki | | No Comments » 

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