わずかに救われることー『平家物語』から ー nashinoki

 

少し前、
友人たちと続けている読書会で
『平家物語』を読む機会がありました。

 

冒頭の「祇園精舎」の節を
学校で暗唱させられて以来、
今回初めて
古川日出男訳による現代語訳で
全巻を通して読みました。

 

正直に言えば、
最初は読んでいて、
物語の面白さがあまりわかりませんでした。
前半の主人公は平清盛で、
彼を中心に平氏や貴族の名が数多く登場し、
中国の故事まで
無造作に引用されたりするのですが、
一つのエピソードが展開せず
人物の行動や感情もよくわからないまま。
なんだか物語に入り込めないように
感じていました。

 

その印象が変わり始めたのは、
12巻中の7巻から8巻あたり。

 

訳者の古川氏は『平家』を訳していると、
ここで著者が変わったと感じる瞬間が
あると述べていますが、
(『平家』には複数の執筆者が関わったと言われています)
まさにそういう調子で、
清盛の死後、
中心人物が木曾義仲に交代したあたりから、
一節ごとに登場人物の行動や心情が、
鮮やかに描かれるようになります。

 

後半、生き残っていた平氏の残党が
源氏方によって次々と追い詰められ、
わずかに落ち延びる者を除いて、
多くが死んでいく。
その描かれ方は一つ一つがとても克明で、
どうやって命を落としたかという最期まで、
はっきり描かれている。
物語の一番の力点、あるいは執念が、
そこにあるように思われます。

 

敗れて死んでいく者たちを見るのは、
苦しい。
彼ら・彼女らには、
死という終わりがあるだけで、続きがなく、
いったいそれを、
読む者はどう受けとめたらよいのか。
そう思うからです。

 

けれど同時に、
それが描かれていることに、
僕は、安心する気持ちも感じていました。
そこには、人間が長い歴史を経る中で
必ず生まれてきた敗れた死者を、
見つめる視線が存在している。

 

苦しみを、
救われない死を、
最期まで見つめる。
そのことで、その死は何かに包まれ、
わずかに救われる。

 

死という断絶、隔たりに対して、
僕たちは全く無力なわけではない。
死者たちを描き伝えてきた言葉の営みに、
そう教えられる気がします。

 

MAGAZINE 「TOTTO

 


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