4月の「夢」― 感染症の時間の中で ー nashinoki

 

新型コロナウイルスの感染が広がり、
人と会いにくい状況が続く中、
様々な人が、
誰かとコミュニケーションを取るための、
いろいろな方法を
編み出していたように思います。

 

一番普及したのは、
映像による複数人の通話が可能な
zoomだったと思いますが、
それ以外にもインターネットラジオや、
共有したドキュメントに
複数人で書き込みをする形など、
僕の周囲でもいくつかの、
他者とかかわるための方法が
作り出されていました。

 

季節は春にもかかわらず
日本全国が冬眠しているようだった4月、
僕はそういう、
どこか遠くから聞こえてくる
他者たちの声に、
ずいぶん救われたように思います。

 

しかし5月に入り
感染状況が落ち着きを見せ、
また季節が初夏のような暖かさと
日射しに変わると、
なんだかそれまでの
暗い穴の中にいるようだった世界が、
急に夢だったように思われ、
その間に編み出され交わされていた方法や
言葉たちと自分をつなげることも、
難しくなってしまったように感じました。

 

棒状の型からゼリーが押し出されるように
自分は気がついたら
そこから出てきてしまった。
その4月の「夢」に対して、
違和感を無視したまま
つながり続けることは、
なんだか間違っていることのように
思えました。
それはとても、
不誠実な振舞いのように思えるのです。

 

なぜなのだろう。
それは、現在の日常に戻りつつある
時間に対して、
「夢」の時間が歪んでいることを、
見ないふりをすることになるから
かもしれません。
歪んでいるものを、
歪んでいない日常をみるための光で見ても、
その中にあるものの姿を
正確に捉えることはできません。
すると、
歪んでいる時間の中に取り残されたものを、
見る者は忘れてしまうことに
なるのではないかと思うのです。

 

あるいはその時間を本当の夢のようにして、
全てなかったことにすることは
できるでしょうか。
それもできません。
なぜなら歪んだ時間の中で
社会は現実に影響を受け、
何より、
そこで亡くなった人たちがいるからです。

 

4月に経験した「夢」を、
どうやったらその後の時間に
つなげることができるのか。
僕は今も考えています。

 

MAGAZINE 「TOTTO


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