希望とか絶望とか欲望とかとは別の生活/「ニーチェの馬」ー 大場 綾

 

克子さんが紹介してくれた
「ビフォア・サンライズ」。
観たのは続編「ビフォア・サンセット」の
公開後ぐらい。
つまり二人よりはるかに年上だった。

 

それでも「大人だ…!」と感じた。
しゃべりまくるけど相手の言葉を受け入れ、
かつ自分の言葉を組み立てる。
つまり対話している。
すっかり感心してしまったのだった。

 

対話できる人は大人だと思う。
私は若いとき本当に人の話を聞かなかった。
「自分が」何をしゃべるか、
どうしゃべるか、しか頭になかった。
黙っていては
永遠に話す機会が来ないという
焦燥感もあった。
寛容に言うならじたばたしていた。
そんな感じの若い人に出会うと

「こうだったのね〜」

と少し生ぬるい目になる。

 

「ビフォア・サンライズ」は
物語のほとんどが
主人公たちだけで進行する。
「ニーチェの馬」もほぼ父と娘、
そして二人が暮らす家しか出てこない。

 

この二人には対話と呼べる
やりとりはない。
それ以前に会話がほとんどない。

 

朝起きて、娘が父の着替えを手伝い、
茹でたじゃがいもを食べ、
井戸の水を汲み、馬と馬車をつなぎ、
働き、帰ってきて馬と馬車をしまい、
じゃがいもを食べ、眠る。
「おい」と「食事よ」意外には
言葉がなくても済むほどに
日々のルーチンが出来上がっている。
多分そうやってずっと暮らしてきた。

 

 

風が映画の冒頭から
暴力的に吹き狂っている。
朝も夜も続く。
その中でルーチンが
どんどんほころびていく。
馬が働かなくなり、井戸が涸れ、
燃料があるのに炎が消える。
それでも淡々と対処し、
同じように毎日を続けようとする父と娘。

 

 

最後、ついに風さえもやんで静寂と闇。
その中で父親は生のじゃがいもをかじる。
足をもがれたらもがれたまま
平気で生きていく昆虫みたいだ。
野生動物みたいだ。
娘は皿を前に一点を見つめて動かない。

 

こういう状況で、自分はいったい
どのように振る舞うだろうかと
考えずにはいられない。

 


大場 綾ブログ「kusamura.com」


2020年10月14日 | Posted in 余談Lab, 映画に学ぶ, 大場綾 | | No Comments » 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA